レコア・ロンド論・・「辱め」から「レコア崇拝」の可能性まで
まず、基本的な話をおさらいすると、ZガンダムのTV版では、レコアはジャブローに潜入し、連邦軍の兵士に捕まり、胸を触られたりします。
そこにカイがやってきて助けるのですが、通信機器の故障のため、カイの提案で基地の機器を使おうと潜入し、結局またつかまります。
その後は、不明なのですが、カミーユが助けにきたときには、レコアとカイとのやりとりの中で、「辱め」を受けたと言う発言があります。
なんだか曖昧なのですが、小説版だとほんの少しだけ詳しくて、基本的に拷問であることがわかります。
また、カイが自分のせいでレコアを「傷物」にしたという言い方をします。
それ以上の説明はないのですが、ようするにレコアは、拷問を受けたことがわかります。
ついでに言うと、TV版のカイは、わざわざレコアのことをカミーユにほのめかすような言い方をして、レコアが嫌がっているように私には思えたのですが、小説版だと、セリフはほとんど同じですが、カイが話をぼかしていることをレコアは感謝しているように書いてあります。
さて、拷問というとさぞかしレコアはショックかと思いきや、レコアは結構平然としてるようにも見えます。
なぜか?
小説版では、そもそもカミーユの父を殺した(アーガマのモビルスーツを奪って連邦軍に逃走しようとしたため)のは、レコアだという設定になっており、ジャブロー行きを志願したのも、自責の念からであり、拷問を受けたのも、やはり自分がカミーユの父を殺した罰だと考えているのです。
そして、ジャブローから救出された後、すぐにアーガマからも降り、物語からは退場しておわります。
つまり、小説版レコアの位置づけというのは、全て基点がカミーユの父親殺しにあるのです。
それへの自責の念に耐えかねてジャブローに単独でおり、さらには、拷問にあっても、自分の罪の罰だと考え、最終的にはやはり、アーガマにいづらくて、物語からも去っていくという。
徹底して、カミーユの父を殺した罪の意識の問題なのです。
ところが、ご存知のようにTV版では、大きく話が変わっています。経緯は私は知りませんが、ともかく、全く変わりました。
まず、カミーユの父はレコアに殺されたわけではありません。
そうすると、小説版にあったレコアのジャブロー行きの動機から拷問を受けたことへの影響まで、全てが変わるわけです。
具体的には、まず、レコアは、冒険好きな女であるという設定となります。だから、ジャブローに志願したわけです。そして、同じ理由で、後にはシロッコのいるジュピトリス潜入もまた繰り返すことになります。
さらに、それらの原動力である冒険好きの説明として、少女時代から戦いの中で生きてきたことが明らかになります。
小説版のように、カミーユの父を殺したショックでジャブローに行ったり、納得して拷問受けたり、アーガマ降りたりするのではなく、少女時代から戦いに身を投じ、好きでジャブローに行ったり、ジュピトリスに潜入したりするキャラになったわけです。
しかも、その理由の一つは
「いい男がいないから・・」
この、TV版レコア・ロンドというキャラはどう考えるべきでしょうか?
ジャブローで兵に胸をさわられ、拒否して顔をたたかれ、カイに助けられるも、結局拷問を受け、宇宙へ戻るとまた志願してジュピトリスに潜入し、またつかまって、今度はシロッコにピンタされ・・
しかも、そういうことを少女時代から繰り返し、しかも「いい男がいない」というレコア。
ついでにいうと、さんざん自分から希望してやっていながら、最後には
「男は、女を利用するか、辱めるだけ」
と言っています。
ジャブローのことを言っているにしては、それまでの展開では全く心の傷も見せず、ジュピトリスにも繰り返して行っていましたが?
ここから、深読みモードに入ります。
先日、シャア専用ページを立ち上げ、シャアの謎の行動を統一的に説明する観点として、両親の死への固着をあげました。つまり、ザビ家による親の死を、修正したいという無意識の願望が、ガンダムにおけるザビ家への復讐であり、Zガンダムにおける暗殺失敗の連続であり、逆襲のシャアにおけるザビ家のマネである、と。
同じく、レコアに対しても、精神分析の固着の理論を使ってみます。(理論の紹介はシャア論文参照)
なぜなら、レコア本人にとって、明らかにリスクが高い行動を本人が何度も理由もなく繰り返す場合、それは、潜在的な精神の問題であると考えるのが妥当だと思うからです。
そうすると、ジャブローでの「辱め」が原因で後の様々な行動が生まれたというのは間違いである気がします。
むしろ、レコアが男達に「辱め」られたのは、少女時代だったはずです。そして、そのショックがあまりにも大きかったために、シャア同様、レコアはその体験を克服できず、固着したのです。
だからこそ、レコアは、その後も何度となく、頼まれなくても同じように敵に侵入します。それは、敵につかまりたいわけでなくて、今度こそ、敵につかまらないことによって、少女時代の傷を、無意識に癒そうとしているのです。
これも、シャアが暗殺やザビ家を再現することで、親の死への固着を無意識に癒そうとしているのと同じです。
だからこそ、レコアは、何度も志願して、女一人で敵に潜入し、つかまって「辱め」を受けても、それを繰り返すのだと思います。なぜなら、彼女が少女時代に受けた傷を癒すには、それしかないからです。
つまり、今度こそ、敵中を突破することで、自分の過去のショックを少しでも和らげ、修正しようという、無意識の願望です。
そんなときに、シロッコと出会います。
ジュピトリスでは、ジャブロー同様、レコアは兵に胸を触られ、見破られてつかまり、シロッコに、ピンタされます。
ここまではジャブローと全く同じ繰り返しです。
ところが、ここで、ジャブローとは全く違う体験、おそらく、レコアが少女時代から、幾度となく(?)経験してきたこととは全く異なる体験をします。シロッコは、彼女に何もせず、そのまま返したのです。
ここで初めて、レコアは、これまでの自分の心の傷に対し、「癒し」の可能性を感じたのだと思います。
そして、後は、レコアは、アーガマを捨てます。
レコア(シャアに)「あなたは私を引き止めるだけのことを何かしてくださいましたか!」
シャア「私に、なにをしろと言うのだ!」シロッコ「アーガマの男達は、君の心を癒せなかった」
レコア「私は、あなたにかけたのです。」
(以上、セリフはうろおぼえ)
「いい男がいない」というレコアは、ようやく自分を癒してくれる男を、シロッコに見つけます。
それは、決してジャブローのことだけではなくて、少女時代からの全てを、シロッコなら癒してくれるかもしれないと思ったのでしょう。
それに対し、シロッコは、なんとレコアに「パラス・アテネ」を渡します。
(小説版ではサラに与えていました。少女神としてのイメージでしょう)
アテネとは、言うまでもなくギリシア神話の女神で、男を嫌い、戦争を好む、戦いと学問の女神です。
男に「辱め」ばかり受けたと感じているレコアに、戦いの女神であるパラス・アテネを与え、
「次の時代は女性の時代だ」「新しい時代を築くのは、レコア、君かもしれない」
というシロッコにより、レコアがいかに癒しを感じ、彼にかける気になったか、当然といえば当然とも思えます。
そして、パラス・アテネをレコアが使った当然の帰結として、ティターンズ壊滅は事実上、レコアがなしとげます(バスク・オム戦死)。
なぜなら、もともとギリシア神話においては、ティターンズは古い神々であり、それを追い落として新しい時代を築くのが、アテネのような神々だからです。
シロッコは、レコアに女神パラス・アテネを与えることで、彼女の心の傷を癒す効果と、古い神々であるティターンズを滅ぼして新しい時代を切り開く役目を同時にあたえたわけです。
なお、付け加えると、パラス・アテネという無敵の戦いの女神は、一説によると少女時代(生まれたとき?)に、「辱め」をうけたという説があります。
このへんは、詳しくは、私の海外旅行ページのアテネの部分を読んでください。
この話も含めると、解釈は一層深くなります。
さて、エマとの戦いでレコアが「男は、女を利用するか、辱めるだけ」といったとき、レコアがエマに伝えたかったのは、なぜ、自分がエゥーゴではなくシロッコについていくことにしたかったのか?だったはずです。
あの一言では意味不明で、よほどジャブローでひどい目にあったのかとか、だったらエゥーゴで戦えばいいのではないかとか思えてしまいますが、実は、レコアがいいたかったのは、これまでの説明すべて、つまり、自分が少女時代から戦いの中にいて、利用されるか、辱められるかだけだったのに、それがかえってトラウマになり、そこから抜けることもできなかったとき、シロッコだけは、流れを変え、癒してくれ、かつ、時代そのものを新しく作り変えようとしている、ということだったのではないでしょうか?だからこそ、自分はシロッコにかけるのだと。
エマがレコアに言う、「あなたは女でありすぎたのよ」という言葉は、エマが想定している意味と、レコアの深層では、全く言葉の次元が違っただろうと思います。
さて、まとめますと、
(小説版のレコア)カミーユの父を殺した罪悪感→ジャブロー志願→拷問も罰と感じる→アーガマ離脱
というだけの、自責の念だけのキャラでしかありません。
(TV版のレコア)少女時代から戦いの中→ジャブロー潜入志願→辱め→ジュピトリス潜入志願→シロッコに寝返る→シロッコからパラス・アテネをもらう→ティターンズを滅ぼす→「男は女を利用するか辱めるだけ」「私はシロッコにかけた」といった一連の発言
これにより、TV版を深読みすると
解釈1(精神分析的に)・・少女時代の傷を癒そうとして何度も危険な任務ばかりおこなう。最終的にシロッコに初めて癒しをみる。
解釈2(神話的に)・・男への怒りをもつ女神パラス・アテネを使うことで、旧勢力の象徴であるティターンズ(バスク・オム)を壊滅
というように、ものすごく深みのある解釈を許すキャラクターになっていると思います。
小説版とテレビ版とではほぼ同時期だったと思うので、そのわずかな時期に、レコアはただの脇役から、文字通りZガンダムの最重要人物の一人にまで位置づけを変えました。
どこまで意図的なのか、偶然なのかはわかりませんが、レコアは、精神分析的な対象としても、神話的な女神としても、面白い可能性を持ったキャラだったと思います。
シロッコが新しい時代を築いていたら、その時は、彼の構想では、レコアは、おそらく間違いなく、新しい時代の人類に癒しを与える女神=聖母としての位置が与えられていたはずです。
「次の時代は女性の時代だ」そして、その予言は、シロッコとレコアは挫折するものの、やがて、カガチが、女占い師マリアを利用して女王マリアの癒しによるザンスカール帝国を築いたときに、成就したのでした(Vガンダム)
「新しい時代を築くのは、レコア、君かもしれない」
「私は時代の予言者にすぎない」
もし、シロッコの野望がそのまま達成されていたら、彼はマリア崇拝ならぬ、レコア崇拝によって人々の統治を考えた可能性があります。
そのとき、レコア・ロンドは、全ガンダム史上最重要キャラクターとなっていたことでしょう。
ちょっと見てみたい展開でした。(怖いものみたさですが)
(参考)映画Zガンダムでは、レコアの「辱め」関連発言は全てなくなっております。TV版にあった、見ている側が不愉快になるような展開をできるだけとった流れの一貫だと思います。それはそれで重要ですが、TV版のレコアが持っていたかもしれない深さも忘れないようにしたいものです。