∀ガンダム論(ターンエーガンダム論)
第二章 理想的な死の探求としてのディアナの死

森津医師
「私もガンダム大好きで、ガンダムごっこをして遊んでた、まさにガンダム世代なんですよ。ですから、物語の中の死と現実の死というのは随分違うんだというのは、医者になってから気がついたことですよね。」

「私の場合は、それこそガンダムとともにを育ってきて、きれいな死に方をしたい。ああいうふうに何かのために命を懸けて散っていくというのは、すごい素敵なことだなと思ったんですよ。でも、実際に医療の現場に出て、現実の死というものを見たら、それとは全くかけはなれたものだった。
半年間毎日毎日ずっと苦しんで、そのあげくに死んでしまう。そんな人たちの姿を見せられ続けたときに、私達が教わってきたより良い生き方って何だろうって思ったんですよ。」

これは、ホスピスとして、多くの死を見つめてきた、森津医師から富野監督への言葉である。

富野監督は、最後まで、こうは言わなかった。

「ターンエーガンダムを見て下さい。あれが、自分にとっての理想的な死の探求の物語であり、ガンダムの結論です。」


しかし、この対談を行い、富野監督が、ターンエーガンダムの方向性は間違っていなかったと強く感じたことは確かだろう。


ターンエーガンダムとは、数百年以上生きた一人の女性が、いかにして自らの理想の死を選択するかという物語である。



理想の死の探求こそがターンエーガンダム構想のベースであることは、TV製作のごく初期、まだスタッフもろくに決まっていない段階のメモの中で、すでにこう書かれていることからもわかる。

「献身を示すことができるということは、己を愛することができるという高みを得たということであり、そのような者がよりそっているなかで死んでいくことができたディアナは、至高であったとロランは理解できるだろう。それは、生物のあるべき姿であったから、これが全ての意志あるものの行為であればいいと思うのである。」(98年5月 デイアナとロランが出会ってからの物語より)

つまり、どんな物語になろうとも、女王ディアナがどのような死を選ぶのかということがテーマだということだけは、決まっていたといえるだろう。
(実際には、様々な別案も検討されたが、最終的には初期の構想メモどおりとなった)


では、数百年生きた月の女王、ディアナが選んだ死とは何だろうか?

地球帰還作戦を指揮し、多くの人々を悲劇に追い込んだ女王として、ディアナは、たびたび、自分のエゴに対する死による贖罪を口にする。


ただし、彼女が、贖罪意識で死を選んだわけではないことは、人口冬眠している月の民を起こしていることからも明らかである。

このことの意義は、TVや映画では殆ど説明されていない。

ただし、企画書などを見ていると、人口冬眠のミスにより、じょじょに怪物のようになりつつある同胞を見て、ディアナは人々を冬眠から解き放ち、地球に帰還して死ぬ道を開きたかったようだ。(TVでは、冬眠からの再生ミスで醜くなったのは、コレンによる表現のみである)

このことは、富野監督の言葉でいえば、以下のものが対応する。

「長寿願望というのは、一見、人としての素直な願望なんじゃないかと思うんだけど、僕は違うなお思って、・・人よりも長く生きたいなんてエゴでしかないんじゃないかという気がするんです。

「生きていくってのは大変だということを忘れ、長寿を願うエゴが許されている。でも僕は、これはちょっと極端じゃないかという気がするんですよ。やっぱり生まれた順番に死んでいくということを、もう少し自分の生理的な部分で受け入れていかなくてはいけないなと、この歳になって思いはじめてます。」


ディアナは、人口冬眠を利用して長寿を実現しつつある人々に、再度、エゴを抑えた死をもたらしたと言えるだろう。


しかし、そもそも何故、この作品は理想的な死の探求をテーマとしているのだろうか?


富野作品を見ている人なら、赤ん坊や子供による未来への希望や、生まれ変わりによる再生への希望こそが、富野作品によく見られる傾向であることはご存知だろう。

ガンダムシリーズに限ってみても、以下のように妊娠・赤ん坊・子供が特別視されていることは明らかである。

・ガンダムの企画案「ガンボーイ」におけるラスト赤ちゃん構想
・ガンダムにおける若い世代や少年少女における人類進化への期待(とくにラストのカツ・レツ・キッカなど)
・逆襲のシャア ベルトーチカチルドレンにおける、妊娠女性や赤ん坊の絶対優位性(映画版ではスポンサー意向で変更)
・小説ガイア・ギアのラストにおける妊娠
・Vガンダムにおけるマーペットの妊娠による戦局の左右(アナウンスによる説明)

しかし、ターンエーガンダムにおいては、赤ん坊も妊娠女性も出てくるにも関わらず、特別視されることは全くない。

推測だが、子育てをしながら作品作りをしていた年齢と、孫ができず、単純に次の世代に夢を託せなくなった年齢とでの、富野監督自身の視点の違いが反映されているのではなかろうか?

富野監督
「娘達は孫をつくってくれるのか。孫がいなかったら家は断絶だぞ」(ターンエーの癒しより)
「この歳になって、孫がいる爺婆といない爺婆では決定的に違うということがわかってきました」

さらに、冒頭にあげた森津医師の言葉のように、富野監督自身が高齢の自分の両親の面倒を見なくてはならない実体験の影響もあるだろう。

富野監督
「もうひとつの問題は、死ぬまでの時間の問題。死ぬことが射程距離にはいった年齢ともなれば、それは実感として想像できる。経済の問題は最重要であるし、老後に看護されるという問題は、自尊心もかかわって深刻で、アルツハイマーになることは、想像したくもない恐怖である。」

「ぼくも死ななければならないと感じられるようになったのだから、両親には早く死んでもらいたいのだ。そうでなければ、働き続けなければならない」(ターンエーの癒しより)


かっこよく死んで、後は次世代に託す物語を作るよりも、いかに死ぬか?子孫もいない人生の意義は何にあるのか?という観点が、富野監督にとってリアルな問題となったということかもしれない。

富野監督
「自己はひとりではないし、また、他者が自己のものを学んでくれて、吸収してくれるなら、そこにも自己がいることになる」

「死んだものは無でしかないのだから、あらゆる意味での意味はないのだが、存在ということに価値がないのではない。一度でも存在したものであれば、なんらかの意味はある。
なぜなら、あなたというひとつの個体を生み、生ませ、育て育てられた人々のあいだには、なんらかの関係性があったわけだから、無価値であるということはない。
悪しき影響であったにしても、それはある、あった、のだ。」(ターンエーの癒しより)


以上見てきたように、自分の年齢、両親の看護、孫の不在などの影響により、赤ん坊や世代交代への期待色が弱まり、いかにして死ぬかという問題が前面に出てきたのだろう。

このことは、ターンエーガンダムの構想の中で、こうまとめられている。

富野監督
「永遠の生が獲得できれば、喜びは深いというのは誤解であろう、と感じる。
なぜなら、永遠に生きるという意志は、他者の存在を否定し、孤高の存在を認めさせようという傲慢でしかない。」

「終了があるからこそ輝くのだろう。死があるからこそ輝くのだろう。」

「生体がニュータイプになる。それは、死を受容できる人でしかないという意味を忘れ、能力が永遠を獲得できると誤解したのだ。」

「太陽が消滅するときには、人類という命は失われる。が、その失われる人類の存在は、輝きとして悠久の刻を越えて、他の生命体が感知するのだから、それで良しとできないのか?
光に乗ったデータは、一千億光年の彼方の生命体に、我らの存在を伝えてくれる。そして、我らの生き生きとした輝きに、感動してくれるだろう。

光は、この太陽系の、この地球の、この大陸の、この島の、この町の、この家のデータを選別することなく、一千億年の彼方に伝えてくれるのだ。

この場(フィールド)という形状が、我らの記憶を伝えてくれる。

故に、命を輝かそう。

その輝きは、他者に感知される。

だから、我々は孤独ではない。

だから死ぬとロランに言うのだ。

それは、悲しみではない。

あるべき姿だと。

死の向こうにあるのは、永遠の安息。

無!

それは命にとって悠久の安息・・・

だから、ロラン、君も命を享受したいのなら、そのようにおし、と、ディアナは言ってくれたのだ。」


(「ディアナがナノマシンによる老化防止を拒否した理由」より抜粋 ニュータイプ100%コレクションより)




では、ディアナ自身の選んだ理想の死とは何だろうか?

彼女は、めくるめく地球の厳しい自然の中で、ただひたすら四季のうつりかわりを見つめていたように見える。

これは、後に行なわれた対談で、森澤医師が富野監督に言った以下の言葉そのままである。

森津医師「少なくとも私が見て、幸せに亡くなった人たちの生き方というのは、皆さん毎日毎日を本当にあるがままに受け入れて生きているんですね。決して我慢したり、無理をしない。」

ディアナの最後の日々は、まさに、「毎日毎日を本当にあるがままに受け入れて生きている」という言葉がぴったりである。

ただし、それに加えて、富野監督は、もうひとつ、大きな要素を追加していた。

さすがに恥ずかしかったのだろうか?富野監督は森津医師には一言もいっていない。

それは、初恋の人に似ている人に、献身的に尽くされる中で、死んでいくというアイデアである。


富野監督はいう。
「献身を示すことができるということは、己を愛することができるという高みを得たということであり、そのような者がよりそっているなかで死んでいくことができたディアナは、至高であったとロランは理解できるだろう。それは、生物のあるべき姿であったから、これが全ての意志あるものの行為であればいいと思うのである。」(98年5月 デイアナとロランが出会ってからの物語より)

それが全ての生物のたどりつく至高の死であるということだろう。

そして、映画版の製作後に、富野監督はこうまとめている。

「ターンエーで目指したものは、こういうことだったのだ。

ターンエーの劇中の人々は、みんなよく飲む、よく眠る、よく走る。そして、バカな戦いもすれば、月にも行ったし、月からも来た。

ロランは、キエルさんに憧れを感じていたし、ディアナ様を尊敬もしていた。

そして、ソシエを愛おしくおもっていた。

そして、ソシエにはそれがわかったから、ロランをディアナ様にあげたのだ。

そのディアナ様は、ロランとソシエを十分に知っていても、最後の自分を見取ることをロランに頼んだ。

許したのではない。頼んだのだ。

なぜなんだろう?

それは、永遠の疑問ではない。簡単な理由だ。

ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう。

人間などというものは、そんなものなのだろうと思う。

それは、つまらないことなのだろうか?

そうではないと伝えたいのが、ターンエーという物語なのだ」



・ 死の直前まで、めぐる自然のうつろいを見つめながら、日々をあるがままに見つめて生きていくこと。

・(できれば初恋の人に似ている相手に)献身的に尽くされる中で死んでいくこと。


これが、ターンエーガンダムによる理想的な死の探求の結論である。



 


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