∀ガンダム論(ターンエーガンダム論)
第一章 全てのガンダム作品とニュータイプ論の結論としてのディアナの死




ガンダムとニュータイプの歴史とは、ある面で、人類がいかにしてエゴを乗り越えるかという歴史であったということができる。

このテーマにおいて、特に大きなターニングポイントとなった作品は以下の4つである。


1.ガンダム〜逆襲のシャア 〜宇宙への進出とニュータイプへの覚醒による人類の革新の追求〜
2.Zガンダム  〜癒しと女性の時代への予言〜
3.Vガンダム 〜人類の幼児化によるエゴの乗り越えと地球再生計画へ〜
4.ターンエーガンダム  〜地球帰還と死の受容〜




1.ガンダム〜逆襲のシャア 〜宇宙への進出とニュータイプへの覚醒による人類の革新〜
ガンダムのSF的設定の根幹をなすもののひとつは、スペースコロニーの存在であった。
なぜなら、人類が宇宙へ進出したことこそが、新たなるスペースノイドを登場させ、ニュータイプの誕生へとつながる物語だったからである。

この時点でのニュータイプとは何だったのだろうか

富野監督「「人を誤解なく理解できる人」それが「ニュータイプ」です。」(全ニュータイプ図鑑より)


そして、ニュータイプというのは、常に宇宙の民であった。

これは、環境こそが、人間の能力のあり方にとって決定的な意味を持つという富野監督の考えによる。

なぜ、宇宙という環境が、ニュータイプを産み出すのか?


富野監督「現在の人間が実際に使いこなしている大脳細胞(大脳皮質)は、全体の約30%〜40%くらいにすぎないといわれています。

それでは、残りの約60〜70%の大脳皮質は、一体何のためにあるのだろう ?

「ガンダムワールド」では、この考えを応用しました。残りの脳細胞は、きっと人間が宇宙に出たときに使うのに違いないと。

そして、この眠れる脳細胞がフルに活動するようになれば、宇宙的視野で物事を理解できるようになれるのだと。

たとえ自分がひっくり返っているときでも、瞬間的に宇宙空間での座標上では、自分が現在いる位置は、どこそこであると、パッとセンサーが働き、空間論が生理的にわかるようになる。

それともう一つ重要なことは、広大な宇宙空間で通信するのに必要なコミュニケーション能力が、オーラ力のテレパシーとして開花するのではないか。

つまり、大脳皮質がフルに働き出したために、広大な宇宙でスムーズに人を誤解なく理解できるようになった人、それが「ニュータイプ」なのです。」
(全ニュータイプ図鑑より)

自分という枠を超え、人を誤解なく理解できることがニュータイプの特質のはずだった。


だからこそ、シャアは、人類全体を宇宙に強制的に連れ出そうと考えていたのである。

シャア「人は長い間、この地球というゆりかごの中で戯れてきた。しかし、時はすでに人類を地球から、巣立たせるときが来たのだ。人間は宇宙で自立しなければ、地球は水の惑星ではなくなるのだ!」(Zガンダム 37話 ダカール演説より)

「人類全体をニュータイプにするためには、誰かが人類の業を背負わなければならない」(逆襲のシャア)


「機動戦士ガンダム」から、「Zガンダム」「ZZガンダム」をはさみ、「逆襲のシャア」にいたるまで、ニュータイプというのは、人類が自らの業を越えるための希望の象徴であった。



2.Zガンダム  〜癒しと女性の時代への予言〜
話は前後するが、ガンダムの続編「Zガンダム」において、予言者の役割を自認しているパプティマス・シロッコはこういう。

シロッコ「地球には癒しが必要だ」
シロッコ「次は、女性による支配の時代がやってくる」

彼は、早くもこの時点で、人類にとって必要なのは、「ニュータイプ」化による革新や自立ではなく、女性支配による「癒し」なのだと見抜いていた。

女性の癒しによる支配。
シロッコの野望は挫折したため、「Zガンダム」においては、このテーマは掘り下げられなかった。

だが、シロッコの予言は、宇宙世紀の年代で60年後(Vガンダム)にマリア主義によって現実化する。


3.Vガンダム 〜人類の幼児化によるエゴの乗り越えと地球再生計画へ〜
Vガンダムでは、初めて、ニュータイプの少年が地球出身者となった。
これは、宇宙での生活がニュータイプへの革新を促すというこれまでの流れとは反する。
なぜか?

ガンダムシリーズのひとつのテーマである「人と環境の関係」が、初期シリーズでは「宇宙環境と人間」であったものが、Vガンダムでは、「自然環境と人間」に変わったからである。
そのため、物語は、森林深い山奥からはじまることになる。

これは、宇宙という環境よりも、自然という環境の中での方が、人間にとって何か重要なことを学ばせる環境であるという認識の変化による。

(参考:小説版「F91」では宇宙の方が厳しい環境とされていたが、Vガンダム直前に書かれた小説「ガイア・ギア」ではスペース・コロニーはむしろ人を甘やかす人工物として扱われ、自然が上位に変わっていたことに注意。
また、「ガイア・ギア」も「Vガンダム」も、物語は地球ではじまり、地球で終わる、地球出身者の物語である)


主人公ウッソの両親は、子供を育てるために、季節の厳しい東部ヨーロッパで彼を育てる。

宇宙空間における制御されたスペース・コロニーよりも、この地球の自然の中で暮らす方が、はるかに人間は鍛えられるという認識。

これは、スペース・コロニーが、人類のエゴの産物にしかすぎないという認識とも結びついている。

つまり、スペース・コロニーによる宇宙への進出は、「ガンダム」においては、人のエゴを乗り越える機会と位置づけられていたが、「Vガンダム」においては、評価が180度変わり、生存圏の拡大という、最も基本的な人間のエゴの産物と位置づけられたのだ。



これらの背景には、80年代から90年代への時代背景の変化もあることは間違いないだろう。
・地球の温暖化
・環境問題への取り組みの推進(クリーン製品の利用,物品の分別回収)
・スペースシャトルの打ち上げ失敗や中止。また、宇宙開発そのものの限界が見えてきたこと。


富野監督
「15年前には、まだ未来に対しての期待観があったために、スペースコロニーというのは一つの夢の象徴であり、そこから物語を出発させて現実に認知させるという方法をとりました。」

「15年たち、実際の社会で「環境問題」が一般化してきた今、ガンダムでは初めて”地球”から始まる物語を作ろうと思ったんです。」
(アニメージュ、93.3)

ニュータイプへの進化論にかわったものは、以下の2点である。
・シロッコによって予言されていた、マリア崇拝という「女性の癒し」
「天使の後光(エンジェル・ハイロゥ)」による人類の強制的な睡眠・幼児化

進化よりも、退化こそが、人類がエゴを乗り越えて進むべき道として登場したのだ。


たしかに、エゴを越えるという目的においては、何もニュータイプのような特殊能力を身につける必要はなく、むしろ、赤ん坊に戻るほうが容易で正しいのではないだろうか?

強制的に人類を幼児化しようとする兵器、エンジェル・ハイロゥはそれを明快に表現している。

しかし、人類を幼児化してどうしたかったのだろうか?

小説版Vガンダムで、タシロが面白い解釈を示している。

エンジェル・ハイロゥで眠った人々は、3日後には起き上がるのではないか?と。

永遠の眠りから、3日後によみがえるというのは、キリストの再臨そのままである。

この言葉は、カガチが一環して人間のエゴを問題にしたことを考えると、信憑性が出てくる。

カガチ「私は穏やかな人類を地球に再生したいのだ。」(48話)

そして、このように解釈してこそ、マリアの名が何故マリアなのかという問いに、ひとつの回答が得られる。

マリアの存在の真の意義は、エンジェル・ハイロゥを使って、人類全体を、エゴのない動物として再生させることだったのだ。

つまり、マリアは、人類がキリストのように、エゴを越えた存在に生まれ変わるための、母の役割を果たしているのである。

だからこそ、キリストの母マリアと同じ名前なのだろう。

補足として、かつて、ニュータイプはキリストに例えられたことも思い出して欲しい。(Vガンダム直前に書かれた小説ガイアギア)

ザンスカール(天に最も近い国)という名が示すように、マリアの祈りと天使の輪(エンジェル・ハイロゥ)によって、人類はエゴを越え、穏やかな人種として新たなる一歩を踏み出すというのが、カガチの構想だったのかもしれない。



4.ターンエーガンダム  〜地球帰還と死の受容〜
そして、ターンエーガンダムである。

ここでは、もはや、月では人口冬眠が実行にうつされ、地球では文明レベルが退化した後の時代が描かれる。

冬眠を繰り返しながら、数百年にわたり統治を行なう月の女王ディアナ。

シロッコが予言した、「女による癒しの時代」であり、カガチが目指した「穏やかな人類による地球の再生」でもある。

物語の焦点は、ディアナを中心とする月の民が、いかにして地球に帰還するかにかかっている。

ガンダムシリーズの基盤である宇宙への進出よりも、地球への帰還が問題となったのだ。

これは、主題歌にも歌われている。

「刻(とき)が未来にすすむと、誰が決めたんだ」

富野監督「人間は進化しない。そのことがこの20年でハッキリわかった。人間の進化は百年や二百年じゃムリ。二万〜三万年でも見えない。一億という単位だと思います。」(「ある朝、世界は死んでいた」より)

では、エゴは、いかにして乗り越えられるのか?

そして、ニュータイプ論は、どうなったのか?

富野監督
「生体がニュータイプになる。それは、死を受容できる人でしかないという意味を忘れ、能力が永遠を獲得できると誤解したのだ。」
「ニュータイプは死する存在であるという意味であるにもかかわらず、ニュータイプたり得ぬ人、見果てぬ欲望に身を晒す人は、真実のニュータイプは外宇宙に行ったという伝説を弄ぶ。」

(ニュータイプ100%コレクション「ターンエーガンダム2」)

ニュータイプとは、死を受容できる人であり、死する存在であるというように、定義は変わった。

人類にとっての最大のエゴである生存欲求。

逆襲のシャアにおいては、エゴをなくすために地球に隕石を落とし、強制的に人々をニュータイプ化させることの妥当性が問われた。

Vガンダムにおいては、エゴをなくすために、人類を眠らせ、幼児化させることの妥当性が問われた。

そして、ターンエーガンダムでは、エゴをなくすために、自ら死を受容できる強さをもてるかどうかが問われている。

エゴを乗り越えることこそニュータイプの特徴と定義するならば、確かにこれがニュータイプの最終形だろう。

宇宙で快く制御されたコロニーに安住し、人口冬眠を使いながら半永久的に若く美しいまま生き永らえることよりも、地球の過酷な自然の中で、生死の循環に身を委ねること。

四季の移り変わりの中で自然の変化を見つめ続ける月の女王ディアナの姿は、まさにそれを示している。

宇宙に進出することに希望と進化を見出したガンダムとニュータイプの物語のいきつく先は、地球の厳しい自然の中で、四季の移ろいを見つめながら、悄然と自らの死を受容することであった。

 


∀ガンダム(ターンエーガンダム)のページに戻る